昔の話なのでうろ覚えですが、インターネットでこんな話を読んだことがあります。日本のある技術者が、まだ技術の発展していない国へ、技術的な面の援助を目的に赴きました。実際に工事にあたる労働者は現地の人を雇ったのだそうですが、その地域の人たちはまるで仲が良くなくて、仕事に大きく支障が出たのだそうです。交流がうまく保てなければ仕事がうまく行かないのは当然ですよね。
技術者は困ってしまい、どうしたのかというと、対立する派閥の頭目を1箇所へ呼び、酒を飲みながら心底話し合ったといいます。その他にもいろいろと技術者として、また現場監督として労働者に対して思いやりと信念を持って接した結果、工事はついに完成し、技術者は平和に日本へ戻ったと言います。ところが日本に帰ってきてその話をしたところ、周囲の人は仰天したのだそうです。
なんでも、その地域の人たちがどうして仲が悪かったのかというと、宗教的な対立や人種による差別が根底にあったからで、時には人が死んでしまうくらいにいがみ合っていたのだそうです。つまりその技術者は、民族紛争ほどの規模の諍いを、酒1杯で解決してしまったわけです。後から知ったこととはいえ、技術者本人も相当にびっくりしたのだと言います。現地にいる間は、町内会の諍い程度だと思っていたとか。
もし、その争いが人種や宗教に根ざした根底の深いものだと初めから知っていたら、こうはいかなかったかもしれません。何かを始めるには情報収集をしてより多くのことを知ることが大切ですが、知らないということが、知っているのと同じくらいの力を発揮することに繋がるのかもしれません。でも、これが通じるのは、偶然が働いた時のみです。多く場合は、より深く知ることが必要でしょう。それについて言うと、大山倍達という達人は、武道において最も秀でていたのではないかと思えてなりません。今回は、知るということから、大山倍達に最強の護身術というのを学んでみたいと思います。
大山倍達といえば数々の偉業をなしてきた武道家ですが、その偉業のひとつに極真会館の設立というのが挙げられます。1個人の武勇伝に終わらず、多くの人にその技を伝える母体を作ったというのは、大きな業績だと思います。この極真会館の「極真」ですが「千日を以て初心とし、万日を以て極となす」という言葉に由来するのだそうです。
千や万というのは、具体的な数字ではなく、もう大丈夫だと思ったところを初心として、極めるにはまだ遠く、とても極めるには至っていないぞ、という戒めの意味だと僕は受け止めました。なんでもそうですが、終わりはありません。僕は一時期工場で働いていたことがあるのですが、1000分の1ミリを争う世界においては、機械だけではなくて、人間の手の感触や技術が最終的にはものを言うということが多々あります。僕はもちろんその職人の足許にも及びませんが、職人として現役で活躍している人は、決まって「生涯勉強だ」ということをいいます。「極真」という言葉もそのような意味ではないかという気がします。
これが格闘技であれば、その心持ちが最強へと繋がるのではと思います。ところで護身術ですが、これは極めることはもちろん大事だと思うのですが、暴漢の方がこっちが強くなるのを待ってくれようはずがありません。勇者が強くなるのを座して待つ魔王など、現実にはいないわけです。弱いういちに、弱いところを狙ってくるのが暴漢です。だから技を極めるのと同時に、未熟なら未熟なりに、その時点でできる最大限に効果のある行動をしなくてはいけません。僕はそこに、素人の弱さが見えるような気がします。
「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉があります。なので大きな視野に立って広く世界を知るために井戸からでなくてはならないと思うかもしれません。そして、それは実際に正解だと思います。ただ、「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉には続きがあるのをご存知でしょうか。井戸から出るのは、それを吟味した後でもいいのではないかと思います。「井の中の蛙、大海を知らず」その言葉の続きはこうです。「されど空の高さ(もしくは青さ)を知る」
井戸の中にいる蛙に見えている世界は確かに狭いのかも知れませんが、その代わりに空を見上げて、その高さ、青さをじっくりと見ることができるわけです。外に出たら、雑事が多くなって空を眺める気持ちはそぞろになってしまうことでしょう。つまり、物事を深く知ったり体得したりするためには、1箇所にとどまる必要があるということです。比較をする言い方をするなら、「広く浅く」を選ぶか「狭く深く」を選ぶかということです。これはどちらがいいとは言えません。場合によるでしょうし、本人がどうしたいのかという望みにもよるからです。
ただ、護身術においては「狭く深く」を選ぶのがいいかもしれません。頓智のような発想や臨機応変の心は大切ですが、もしそれらが効かなくなっていよいよ相手と対決しなくてはならない場合を考えると、「狭く深く」が有効と思えます。すでに2度、記事の中で参考にしてきた、例の「喧嘩師」から「喧嘩術」を学んだ人の話ですが、その人もこう言っています。
「下手な蹴りを目指せ」下手な蹴りというのは、「下手に見える蹴り」「格好悪い蹴り」というような意味です。宙に跳んで体の回転を加えながら、相手の顔面へ足刀を叩き込むことができたら、滅茶苦茶格好いいですよね。でも、実践向きではないし、実践向きであったとしても相当な手練でもないとそんな大技を極めることは不可能です。だからこの人は、下手に見えても格好よく見えなくてもいいから、確実に効く蹴りを目指せと言っています。
その蹴りで相手のどこを狙うのかというのはいくつかありますが、見る限り、動きそのものにはそう変化はないようです。また、人間にはこんな習性があるそうです。選択肢というのは多ければ多いほど可能性が多くなって善いように思えますが、大げさなことを言うと、選択肢が100個あったとすると、多くの人はその多さに混乱してしまって選択することが出来なくなってしまうのだそうです。もっとも選びやすい選択肢の数は、3つか4つなんだとか。
いざ護身術を使って誰かと戦わなくてはならなくなった場合、いろいろと知っていればそれだけ迷ってしまうことになりますし、武道を始めてから間もない人だったら、それほどの数の技を使いこなせるとはとても思えません。だから、はじめは井の中の蛙に徹して、自分にできそうな技を(ひとつでは心許ないので)3つか4つに絞って、それだけをひたすら練習する――つまり、その技における「空の青さを知る」――方法の方が身につくし、そうして少しずつ井戸の中から出ていく(技の数を増やしていく)ことが、最終的には最強に至る道筋ではないかと思うのです。これは一般の人の話です。大山倍達は一般の人ではなく、かつ、まさしく超人でした。
大山倍達とえど、生まれつき強かったというわけではないはずです。実際、師匠がいますし修行もしています。だから、普通の人と同じようにだんだんと強くなっていったと思われます。僕らから見て最強と思えるくらいになるまでには、相当な道のりと困難があったことと思います。
それでも、まさしく最強と呼ばれるようになった大山倍達は、まさに最強だったのではないかと思えてなりません。さっきの「井の中の蛙」の例では「広く浅く」か「狭く深く」のどちらかしか選べないという内容を話したのですが、大山倍達においてはそのどちらでもなく、「広く」かつ「深く」武道においては熟知していたのではないかと思えます。
というのも、大山倍達は空手家であることは有名ですが、一方で合気柔術やステッキ術など、世界中の色んな武術を研究したからです。しかも研究しただけではありません。大山倍達の創設した極真会館では、ほかの会派やほかの格闘技との交流を多く設けていました。その目的は、異なる流派や武術からの技を吸収するためだったと言います。研究して、その結果を試合という形で試した大山倍達には、もはや死角などあるようには思えません。
そんな、まさに最強というべき大山倍達ですが、そんな彼にも不安のよぎることがあったそうです。大山倍達によれば、空手というものは「拳の握り方3年、立ち方3年、突き3年」で、合計最低でも9年はかけないと習得できないものなのだそうです。そこまでに至ってなお、大山倍達は、夜中にふと、自分は拳を正しく握ることが出来るているだろうかと不安になって目を覚まし、その場で練習することがあったのだそうです。完璧を求めるならどんなに達人でも不安になることはあるかと思います。達人でさえそうなのですから、一般の人間ならなおさらです。護身術を使う場面に関わらず、不安によって緊張してしまうことというのはありますよね。そんな時に、一瞬にして不安を打ち消す方法をここで紹介したいと思います。
カウンセリングにはいくつも理論があってとてもすべてを網羅することはできないのですが、その中のひとつに不思議な理論があります。どんなことものかというと、とても簡単で、「より悪い結果を出すためにはどうすれば良いか」を考えることで良い結果を出す、というものです。
例えば、これから大勢の前で演説をしなくてはならないとします。慣れていない人は体ががちがちに固まって、歩けば右足と右手が同時に動いてしまうということにもなりかねません。おそらく頭の中では、客はかぼちゃだ、と思い込もうとしたり、絶対にうまく行く、と自己暗示をかけてみたりと必死になっていると思われます。でもこられの考え自体が、緊張を強める原因になっている可能性があります。
そこで、あえて「もし演説に大失敗するにはどんなことをすればいいのか」と考えてみます。そうすると「遊び心」が刺激されるのと同時に、1歩ひいた視点から自分を見つめる(客観的に自分を見る)ことができます。そうすると心に余裕ができて緊張が和らぎ、失敗しなくなるという理屈です。
もし護身術をもって誰かと戦わなくてはならなくなった場合、素人に近ければ近いほど緊張してしまうでしょう。緊張していれば、ただでさえ不利な状況が、さらに不利になってしまいます。なので、まずは心を落ち着けるために、「もし負けるとしたらどういうふうな負け方がいいか」とか「相手を笑わせるためにはどうすればいいだろう」と余計なことを考えみてみます。そんな余裕はないかもしれませんが、余裕がないからこそ、その余裕を作るためにこんな方法もあるということを紹介しておきます。あえて悪い結果を考える、というのは、不安に陥ってしまった場合の対処法です。はじめから不安にならないようにできるなら、それに越したことはありません。そのためにはどうすればいいでしょうか。
大山倍達という名前は有名ですが、その名前、「倍達」って少し変わった名前だな、と思ったことはないでしょうか。僕ははじめ、誤って「ばいたつ」と読んでしまい、変わった名前だなと思ったことがあります。この「倍達」ですが、元は朝鮮半島に伝わる神話に由来しているのだそうです。朝鮮半島には「檀君神話」と呼ばれる神話があります。それに登場する古代王朝の名前が「倍達国」というのだそうです。朝鮮半島において「倍達民族」「倍達の民」というのは、みずからの民族を称える呼び方で、「大山倍達」の名前はこれに由来するのだそうです。
選民思想ということになるのかもしれませんが、こうした優越感というのがあれば、無駄に緊張や不安などを覚えずに済みます。はじめにあげた技術者も、何も知らなかったからとはいえ、できるだろうくらいに思っていたかもしれません。戦いにおいて役に立つとすれば、それはひたすら技を練習することだと思われます。
あれだけやったのだから、というのは僕自身の経験から言っても自信の種になり得ると言えそうです。相手よりも自分が勝っていると思い込むだけの練習量というのは、たとえ実を伴っていなかったとしても自信を湧かせる力があると思われます。そして何にしても、練習というのはやらなければ身につきませんから、護身術に限らず必要なものだと思います。こと最強を目指すならなおさらです。
空手家、武道家としてまさに最強と言えそうな大山倍達ですが、それでもやはり人間です。大山倍達にはひとつだけ惜しいところがありました。それは1代の傑物であったところです。戦国時代でいうと、上杉家は謙信という軍神亡き後は弱体化してしまいました。武田家も、信玄という巨星が没してからは勢力は下り坂になっています。今川家もそうです。北条家も、織田家も豊臣家もそうです。「傑物」と言われる当主がいた時期というのがあり、その間は勢力が拡大したりほかの勢力からの侵攻を防いだりしていましたが、その傑物がいなくなってからは瓦解してしまいがちです。大山倍達にも、こうしたことが言えるのではないでしょうか。
大山倍達が亡くなった後の極真会館は、分裂してしまいました。分裂した原因が、もし、空手を含む武道の在り方に関する思想の相違のためだったら、まだいいでしょう。ところがこの分裂には、「極真」という商標を巡る争いとか、組織における主導権の争いをも含んでいたのだそうで、もし大山倍達がこの様子を見ていたら、怒りを通り越して溜息をつきたい気分になっていたかもしれません。
空手家として有名な大山倍達は、すでに話したように、ほかのさまざまな武術を研究し、また実践していました。その中に「借力」というものがあったそうです。これは厳密にいえば武術というよりは鍛錬法なのだそうですが、どんなものかといえば、神や薬の力を「借りる」ことで、自分の体を強くするものなのだそうです。
この考えを、もっと広い意味で大山倍達が捉えていたら、分裂騒動も起きなかったのではないかという気がします。大山倍達が、決して驕り高ぶったり人を信頼しないような人物ではなかったというのは、調べてみると分かります。むしろ、門弟や関係者の中には、彼の訃報を聞いて泣いたものさえいたと言います。おおからな人柄でなければ、死んで人を泣かせるということはできないでしょう。
実際に大山倍達がどのように極真会館を運営していたのかはわかりません。しかし、死後に分裂してしまったのは確かです。もし、「死」という誰にでもある「弱み」を見据えて、その先のことをより緻密に考えて後事を託すことを考えていたのなら、つまり、跡を継ぐ人の力を「借りる」ことができたのなら、妙な権利や地位などの、武道とは関係のない争いを起こさずに済んだのではないでしょうか。
大山倍達という空手界の巨人について、今回は書いてみました。大山倍達は武道に関しては「広く、深く」知った人でしたが、一般の人にはこれは無理と思います。なので、一般の人が護身術において最強を目指すなら、「狭く、深く」という意味で、「下手な蹴り」のような技を3つか4つくらいに絞って練習すること、あえて状況を悪化させるように考えることで不安を砕くこと、数知れない練習から自信を持つことをあげてみました。
そして借力における「借りる」という概念も、護身術を最強と言えるものに近づけるには必要ではないかと思いました。もしかしたら強ければ強いほど、自信があればあるほど、この「借りる」という考えはなくなるのではないかと思います。ですが、強い人や自信のある人が、さらに他人の力を借りたらそれこそ鬼に金棒で、最強になるのではないかと思います。
ましてや護身術ではなおさらです、敵はこっちの弱い状態や弱い部分を狙ってくるわけですから、自分一人では対応しきれない場合というのがあるかもしれません。そんな時は「借力」の精神で誰かの力を借りる――つまり自分が敵より弱いとか不利であることを認める――ということが必要になってくるかも知れません。それは誇りを傷つけることになりかねないとも思いますが、仲間には弱みをみせること、そうして力を貸してもらうこと、同時に自分が力を貸すことが、護身術としては最強になるのではないか――大山倍達という人物から、僕はそのように僕は考えました。
【知らないということ】
昔の話なのでうろ覚えですが、インターネットでこんな話を読んだことがあります。日本のある技術者が、まだ技術の発展していない国へ、技術的な面の援助を目的に赴きました。実際に工事にあたる労働者は現地の人を雇ったのだそうですが、その地域の人たちはまるで仲が良くなくて、仕事に大きく支障が出たのだそうです。交流がうまく保てなければ仕事がうまく行かないのは当然ですよね。
技術者は困ってしまい、どうしたのかというと、対立する派閥の頭目を1箇所へ呼び、酒を飲みながら心底話し合ったといいます。その他にもいろいろと技術者として、また現場監督として労働者に対して思いやりと信念を持って接した結果、工事はついに完成し、技術者は平和に日本へ戻ったと言います。ところが日本に帰ってきてその話をしたところ、周囲の人は仰天したのだそうです。
なんでも、その地域の人たちがどうして仲が悪かったのかというと、宗教的な対立や人種による差別が根底にあったからで、時には人が死んでしまうくらいにいがみ合っていたのだそうです。つまりその技術者は、民族紛争ほどの規模の諍いを、酒1杯で解決してしまったわけです。後から知ったこととはいえ、技術者本人も相当にびっくりしたのだと言います。現地にいる間は、町内会の諍い程度だと思っていたとか。
もし、その争いが人種や宗教に根ざした根底の深いものだと初めから知っていたら、こうはいかなかったかもしれません。何かを始めるには情報収集をしてより多くのことを知ることが大切ですが、知らないということが、知っているのと同じくらいの力を発揮することに繋がるのかもしれません。でも、これが通じるのは、偶然が働いた時のみです。多く場合は、より深く知ることが必要でしょう。それについて言うと、大山倍達という達人は、武道において最も秀でていたのではないかと思えてなりません。今回は、知るということから、大山倍達に最強の護身術というのを学んでみたいと思います。
【熱心さの弱み】
大山倍達といえば数々の偉業をなしてきた武道家ですが、その偉業のひとつに極真会館の設立というのが挙げられます。1個人の武勇伝に終わらず、多くの人にその技を伝える母体を作ったというのは、大きな業績だと思います。この極真会館の「極真」ですが「千日を以て初心とし、万日を以て極となす」という言葉に由来するのだそうです。
千や万というのは、具体的な数字ではなく、もう大丈夫だと思ったところを初心として、極めるにはまだ遠く、とても極めるには至っていないぞ、という戒めの意味だと僕は受け止めました。なんでもそうですが、終わりはありません。僕は一時期工場で働いていたことがあるのですが、1000分の1ミリを争う世界においては、機械だけではなくて、人間の手の感触や技術が最終的にはものを言うということが多々あります。僕はもちろんその職人の足許にも及びませんが、職人として現役で活躍している人は、決まって「生涯勉強だ」ということをいいます。「極真」という言葉もそのような意味ではないかという気がします。
これが格闘技であれば、その心持ちが最強へと繋がるのではと思います。ところで護身術ですが、これは極めることはもちろん大事だと思うのですが、暴漢の方がこっちが強くなるのを待ってくれようはずがありません。勇者が強くなるのを座して待つ魔王など、現実にはいないわけです。弱いういちに、弱いところを狙ってくるのが暴漢です。だから技を極めるのと同時に、未熟なら未熟なりに、その時点でできる最大限に効果のある行動をしなくてはいけません。僕はそこに、素人の弱さが見えるような気がします。
【実は続きがある】
「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉があります。なので大きな視野に立って広く世界を知るために井戸からでなくてはならないと思うかもしれません。そして、それは実際に正解だと思います。ただ、「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉には続きがあるのをご存知でしょうか。井戸から出るのは、それを吟味した後でもいいのではないかと思います。「井の中の蛙、大海を知らず」その言葉の続きはこうです。「されど空の高さ(もしくは青さ)を知る」
井戸の中にいる蛙に見えている世界は確かに狭いのかも知れませんが、その代わりに空を見上げて、その高さ、青さをじっくりと見ることができるわけです。外に出たら、雑事が多くなって空を眺める気持ちはそぞろになってしまうことでしょう。つまり、物事を深く知ったり体得したりするためには、1箇所にとどまる必要があるということです。比較をする言い方をするなら、「広く浅く」を選ぶか「狭く深く」を選ぶかということです。これはどちらがいいとは言えません。場合によるでしょうし、本人がどうしたいのかという望みにもよるからです。
ただ、護身術においては「狭く深く」を選ぶのがいいかもしれません。頓智のような発想や臨機応変の心は大切ですが、もしそれらが効かなくなっていよいよ相手と対決しなくてはならない場合を考えると、「狭く深く」が有効と思えます。すでに2度、記事の中で参考にしてきた、例の「喧嘩師」から「喧嘩術」を学んだ人の話ですが、その人もこう言っています。
「下手な蹴りを目指せ」下手な蹴りというのは、「下手に見える蹴り」「格好悪い蹴り」というような意味です。宙に跳んで体の回転を加えながら、相手の顔面へ足刀を叩き込むことができたら、滅茶苦茶格好いいですよね。でも、実践向きではないし、実践向きであったとしても相当な手練でもないとそんな大技を極めることは不可能です。だからこの人は、下手に見えても格好よく見えなくてもいいから、確実に効く蹴りを目指せと言っています。
その蹴りで相手のどこを狙うのかというのはいくつかありますが、見る限り、動きそのものにはそう変化はないようです。また、人間にはこんな習性があるそうです。選択肢というのは多ければ多いほど可能性が多くなって善いように思えますが、大げさなことを言うと、選択肢が100個あったとすると、多くの人はその多さに混乱してしまって選択することが出来なくなってしまうのだそうです。もっとも選びやすい選択肢の数は、3つか4つなんだとか。
いざ護身術を使って誰かと戦わなくてはならなくなった場合、いろいろと知っていればそれだけ迷ってしまうことになりますし、武道を始めてから間もない人だったら、それほどの数の技を使いこなせるとはとても思えません。だから、はじめは井の中の蛙に徹して、自分にできそうな技を(ひとつでは心許ないので)3つか4つに絞って、それだけをひたすら練習する――つまり、その技における「空の青さを知る」――方法の方が身につくし、そうして少しずつ井戸の中から出ていく(技の数を増やしていく)ことが、最終的には最強に至る道筋ではないかと思うのです。これは一般の人の話です。大山倍達は一般の人ではなく、かつ、まさしく超人でした。
【大海において空の青さを知る】
大山倍達とえど、生まれつき強かったというわけではないはずです。実際、師匠がいますし修行もしています。だから、普通の人と同じようにだんだんと強くなっていったと思われます。僕らから見て最強と思えるくらいになるまでには、相当な道のりと困難があったことと思います。
それでも、まさしく最強と呼ばれるようになった大山倍達は、まさに最強だったのではないかと思えてなりません。さっきの「井の中の蛙」の例では「広く浅く」か「狭く深く」のどちらかしか選べないという内容を話したのですが、大山倍達においてはそのどちらでもなく、「広く」かつ「深く」武道においては熟知していたのではないかと思えます。
というのも、大山倍達は空手家であることは有名ですが、一方で合気柔術やステッキ術など、世界中の色んな武術を研究したからです。しかも研究しただけではありません。大山倍達の創設した極真会館では、ほかの会派やほかの格闘技との交流を多く設けていました。その目的は、異なる流派や武術からの技を吸収するためだったと言います。研究して、その結果を試合という形で試した大山倍達には、もはや死角などあるようには思えません。
【達人の不安】
そんな、まさに最強というべき大山倍達ですが、そんな彼にも不安のよぎることがあったそうです。大山倍達によれば、空手というものは「拳の握り方3年、立ち方3年、突き3年」で、合計最低でも9年はかけないと習得できないものなのだそうです。そこまでに至ってなお、大山倍達は、夜中にふと、自分は拳を正しく握ることが出来るているだろうかと不安になって目を覚まし、その場で練習することがあったのだそうです。完璧を求めるならどんなに達人でも不安になることはあるかと思います。達人でさえそうなのですから、一般の人間ならなおさらです。護身術を使う場面に関わらず、不安によって緊張してしまうことというのはありますよね。そんな時に、一瞬にして不安を打ち消す方法をここで紹介したいと思います。
【不思議な理論】
カウンセリングにはいくつも理論があってとてもすべてを網羅することはできないのですが、その中のひとつに不思議な理論があります。どんなことものかというと、とても簡単で、「より悪い結果を出すためにはどうすれば良いか」を考えることで良い結果を出す、というものです。
例えば、これから大勢の前で演説をしなくてはならないとします。慣れていない人は体ががちがちに固まって、歩けば右足と右手が同時に動いてしまうということにもなりかねません。おそらく頭の中では、客はかぼちゃだ、と思い込もうとしたり、絶対にうまく行く、と自己暗示をかけてみたりと必死になっていると思われます。でもこられの考え自体が、緊張を強める原因になっている可能性があります。
そこで、あえて「もし演説に大失敗するにはどんなことをすればいいのか」と考えてみます。そうすると「遊び心」が刺激されるのと同時に、1歩ひいた視点から自分を見つめる(客観的に自分を見る)ことができます。そうすると心に余裕ができて緊張が和らぎ、失敗しなくなるという理屈です。
もし護身術をもって誰かと戦わなくてはならなくなった場合、素人に近ければ近いほど緊張してしまうでしょう。緊張していれば、ただでさえ不利な状況が、さらに不利になってしまいます。なので、まずは心を落ち着けるために、「もし負けるとしたらどういうふうな負け方がいいか」とか「相手を笑わせるためにはどうすればいいだろう」と余計なことを考えみてみます。そんな余裕はないかもしれませんが、余裕がないからこそ、その余裕を作るためにこんな方法もあるということを紹介しておきます。あえて悪い結果を考える、というのは、不安に陥ってしまった場合の対処法です。はじめから不安にならないようにできるなら、それに越したことはありません。そのためにはどうすればいいでしょうか。
【倍達とは】
大山倍達という名前は有名ですが、その名前、「倍達」って少し変わった名前だな、と思ったことはないでしょうか。僕ははじめ、誤って「ばいたつ」と読んでしまい、変わった名前だなと思ったことがあります。この「倍達」ですが、元は朝鮮半島に伝わる神話に由来しているのだそうです。朝鮮半島には「檀君神話」と呼ばれる神話があります。それに登場する古代王朝の名前が「倍達国」というのだそうです。朝鮮半島において「倍達民族」「倍達の民」というのは、みずからの民族を称える呼び方で、「大山倍達」の名前はこれに由来するのだそうです。
選民思想ということになるのかもしれませんが、こうした優越感というのがあれば、無駄に緊張や不安などを覚えずに済みます。はじめにあげた技術者も、何も知らなかったからとはいえ、できるだろうくらいに思っていたかもしれません。戦いにおいて役に立つとすれば、それはひたすら技を練習することだと思われます。
あれだけやったのだから、というのは僕自身の経験から言っても自信の種になり得ると言えそうです。相手よりも自分が勝っていると思い込むだけの練習量というのは、たとえ実を伴っていなかったとしても自信を湧かせる力があると思われます。そして何にしても、練習というのはやらなければ身につきませんから、護身術に限らず必要なものだと思います。こと最強を目指すならなおさらです。
【傑物の弱点】
空手家、武道家としてまさに最強と言えそうな大山倍達ですが、それでもやはり人間です。大山倍達にはひとつだけ惜しいところがありました。それは1代の傑物であったところです。戦国時代でいうと、上杉家は謙信という軍神亡き後は弱体化してしまいました。武田家も、信玄という巨星が没してからは勢力は下り坂になっています。今川家もそうです。北条家も、織田家も豊臣家もそうです。「傑物」と言われる当主がいた時期というのがあり、その間は勢力が拡大したりほかの勢力からの侵攻を防いだりしていましたが、その傑物がいなくなってからは瓦解してしまいがちです。大山倍達にも、こうしたことが言えるのではないでしょうか。
大山倍達が亡くなった後の極真会館は、分裂してしまいました。分裂した原因が、もし、空手を含む武道の在り方に関する思想の相違のためだったら、まだいいでしょう。ところがこの分裂には、「極真」という商標を巡る争いとか、組織における主導権の争いをも含んでいたのだそうで、もし大山倍達がこの様子を見ていたら、怒りを通り越して溜息をつきたい気分になっていたかもしれません。
【力を借りる】
空手家として有名な大山倍達は、すでに話したように、ほかのさまざまな武術を研究し、また実践していました。その中に「借力」というものがあったそうです。これは厳密にいえば武術というよりは鍛錬法なのだそうですが、どんなものかといえば、神や薬の力を「借りる」ことで、自分の体を強くするものなのだそうです。
この考えを、もっと広い意味で大山倍達が捉えていたら、分裂騒動も起きなかったのではないかという気がします。大山倍達が、決して驕り高ぶったり人を信頼しないような人物ではなかったというのは、調べてみると分かります。むしろ、門弟や関係者の中には、彼の訃報を聞いて泣いたものさえいたと言います。おおからな人柄でなければ、死んで人を泣かせるということはできないでしょう。
実際に大山倍達がどのように極真会館を運営していたのかはわかりません。しかし、死後に分裂してしまったのは確かです。もし、「死」という誰にでもある「弱み」を見据えて、その先のことをより緻密に考えて後事を託すことを考えていたのなら、つまり、跡を継ぐ人の力を「借りる」ことができたのなら、妙な権利や地位などの、武道とは関係のない争いを起こさずに済んだのではないでしょうか。
【狭く、深く。そして時に借りる】
大山倍達という空手界の巨人について、今回は書いてみました。大山倍達は武道に関しては「広く、深く」知った人でしたが、一般の人にはこれは無理と思います。なので、一般の人が護身術において最強を目指すなら、「狭く、深く」という意味で、「下手な蹴り」のような技を3つか4つくらいに絞って練習すること、あえて状況を悪化させるように考えることで不安を砕くこと、数知れない練習から自信を持つことをあげてみました。
そして借力における「借りる」という概念も、護身術を最強と言えるものに近づけるには必要ではないかと思いました。もしかしたら強ければ強いほど、自信があればあるほど、この「借りる」という考えはなくなるのではないかと思います。ですが、強い人や自信のある人が、さらに他人の力を借りたらそれこそ鬼に金棒で、最強になるのではないかと思います。
ましてや護身術ではなおさらです、敵はこっちの弱い状態や弱い部分を狙ってくるわけですから、自分一人では対応しきれない場合というのがあるかもしれません。そんな時は「借力」の精神で誰かの力を借りる――つまり自分が敵より弱いとか不利であることを認める――ということが必要になってくるかも知れません。それは誇りを傷つけることになりかねないとも思いますが、仲間には弱みをみせること、そうして力を貸してもらうこと、同時に自分が力を貸すことが、護身術としては最強になるのではないか――大山倍達という人物から、僕はそのように僕は考えました。